おさむるばすのblog

ここでは自己紹介を書いています。ファッションやアニメついても

はげまし

人を励ますことは難しいと思います。なんか今年になってめっちゃ人を励ましているように思います。

僕は「がんばれ」という言葉を発することを躊躇してしまいます。自分が言われるのはいいんですが、誰かに言う際には「あなたにはわからない」と思われるだろうし、ひとによっては「何目線だよ」と思われそうだからです。自分の人生経験や哲学が薄っぺらいので言うのをためらってしまいます。だから僕は深刻な状態の人に「がんばれ」という際は必ず「おれはそういうふうな状況じゃないから言える口じゃないけどさ…」という枕詞を置きます。

しかしオードーリーの若林さんの著書『社会人大学人見知り部卒業見込み』の一節にこんな言葉がありました。

「自力では抜け出せない程のネガティブな感情に嵌ったとき、一番初めに起動しなきゃいけないのはやっぱり心だ。行動を起こしながら感情がついて来ることもあるだろうが、それでも一番初めのアクションは心からだ。僕はこの先ネガティブな感情から抜け出せない仲間がいたら、僕の想像力が及ばなかろうが、保身せず『大丈夫』だと言い張ろうとその時決心した。本当に大丈夫かの信憑性はどうでもいい、まず大丈夫と言う。そして、言ったことにより生じる責任を、負おう。」

この一節を読んでぼくは救われたような感情になりました。自分は保身していたのだなあと。まだまだ僕は「がんばれ」と言うのに躊躇してしまうだろうけど、保身せず言っていこうと思います。

こころ

僕はバイトで小中高生に勉強を教えています。ある子に次回授業で「テストで夏目漱石の『こころ』が範囲なのでそれについての授業をしてほしい」と言われて、事前に『こころ』を読み返して勉強することになりました。

高校生ならかならず習う『こころ』ですが僕が高校のころは「よくわからんな」で終わっていました。大学生になり、ある程度は知識、教養を身に着けた今なら見方が変わるかもしれないと思い読みはじめましたが、やっぱりよくわかりませんでした。ストーリーは理解できるのですが伝えたいこととかが分かりませんでした。もしかして「伝えたいことなんかねえよ」ということが伝えたかったのか?とか思いましたが大文豪の夏目漱石が書いた本がそんなわけねえと思いながらもう一回よみました。よくわかりませんでした。なんでこれが日本で一番売れている本なんだとおもいましたが、調べてみるといろんな説やらなんやらがあって一番有名なのは「漱石はこの作品で明治の精神を終わらせた」ということらしいです。

この作品はざっくりいうと三角関係の話ですが、現代人の読者が違和感を感じるのはやはり「先生の自殺」でしょう。「先生」は「お嬢さん」に恋し、友人のKも彼女に恋したことに焦りを感じた「先生」は彼女に求婚し、婚約することでKを出し抜き、それを知ったKは自殺。「先生」は「お嬢さん」と結婚した後もそのことがずっとこころに引っかかており、その当時国民的スターだった乃木大将が明治天皇崩御によって殉死を選んだことに感化され「先生」も自殺するという流れですが、まず乃木大将の殉死というのに違和感を覚えます。殉死とは主君が死んだときに自分も後を追うということですが、現在の価値観では考えられないことですね。しかしここがこの作品の一つの肝らしく、古い価値観である殉死を乃木大将が明治の終わりに選んだことに感化されて先生も自分が「明治の精神」をもっていたことを悟り、来るべき新時代(大正)は、時代遅れの、旧式の精神しか持ち合わせていない自分の生き得る時代ではないと判断し、「明治の精神に殉死」することを選んだのだと言います。そして夏目漱石は「明治の精神」の持ち主であった「先生」を作品上で死なせることで自分自身の「明治の精神」も終わらせようとしたということです。ここでいう「明治の精神」とは日本を近代化させてきた原動力である武士道精神や禁欲主義的な道徳を指します。

夏目漱石は「明治の精神」と近代化によって西洋から流入してきた「西洋の精神」とのはざまで揺れていたそうです。これまでの「明治の精神」を保ち続けるのか、それとも「西洋の精神」を受容するのか的な。なんか倫理でやった気がします。

やはりいつの時代も全く異なる価値観を受け入れることに関してみんな悩むんですね。ちなみに僕は全然受け入れられないタイプです。だから友人もどこかしら似たような奴らばっかです。だからいろんなタイプの友達がいたり、海外の友人が多い人とかは尊敬してしまいます。

なんか道徳のような文になりましたが、まとめると、『こころ』を読んだ際の感想は「なんかわからん」で正解なんだと思いました。

高2の夏

僕はあまり「死」というものを実感したことがあまりありません。親族が亡くなった経験もないので葬式に全然行ったことないし、ペットとかも飼ったことがないので。だから焼香の仕方とか全然わかりません。まあまだ若いので当たり前なんですが。でもこれまでで一回だけそれについて深く考えたことがあります。

高校二年生のとき一歳年上の幼馴染が列車事故で亡くなりました。朝の駅のホームからふらっと落ちて列車にひかれたそうです。当初は自殺なのではないかとか言われていましたがそんな悩みを抱えたりする人物ではなかったので事故だという話になっていた気がします。

幼馴染といっても家が近所ということで小学生のころまではよく遊んでいましたが、中学生からは割と疎遠でした。なので知らせを聞いたとき衝撃を受けましたが、あまり実感が湧きませんでした。知らせを聞いてすぐに母親とその子の家に行きました。家に駆けつけてその子のお母さんが僕の母親に言った言葉が今でも耳に焼き付いています。「◯◯さん(僕の母)も◯◯君(僕)のこと大切にしいやー。いついなくなるかわからへんからなー。うちの◯◯はもう遠いところいってしもたわ。」とても落ち着いた様子でした。列車に轢かれたにも関わらず彼は奇跡的に五体満足の状態でした。病院に搬送されるまでは意識があったそうです。家のリビングには、傷は多少ありましたが寝ているような表情で遺体が布団に横たわっていました。家に駆けつけた彼の友人たちは泣き叫んでいたり、呆然としたりと様々でした。ぼくは後者の方でした。そして不謹慎かもしれなかったけど悲しみとかよりも唖然とする気持ちのほうが強かったのを覚えています。しばらく会っていなかったので、こんな顔していたっけみたいなことを思いました。混乱していたのだと思います。

そして一番強く思ったのは「こんな突然に身近な人は亡くなるのか」というこれまで数々の人間に考え尽くされたであろうことです。彼は昔から人々の輪の中心のような人でした。僕とは真逆です。高校も優秀な学校に入り、大きな部活の部長をやっていました。モテていたとも思います。僕はそういう類の人は「死なない」と思っていました。少なくともこういう亡くなり方はしないとなぜか決めつけていました。その考えが根本から覆され、実体験として目の前に現れたことに衝撃を受けました。

おそらく僕のその時の感情は彼と微妙な仲だったからこそ感じた感情だったのだと思います。とても親しかったり、もしくは全然親しくなかったらそんなことを思わなかったとおもいます。中間にいたからこそ一歩引いてみていたのだと思います。僕の悪い癖、「俯瞰」です。

彼のお葬式の時のことも鮮明に覚えています。たくさんの友人がかけつけ、彼へのいろんな寄せ書きのようなものがたくさん会場に飾られていました。葬式の最中は友人たちは和やかな雰囲気でみんな笑顔でした。みんな笑顔で送り出したいという気持ちだったのでしょう。でも出棺のとき、みんな号泣していました。彼が火葬場行き、もういなくなるのだということを実感したのです。でも僕は全然泣けませんでした。僕は常にクールで友人の死に一滴の涙も流さない冷酷な人間さみたいな自己紹介をする気は毛頭ありません。ほんとうに涙が出なかったのです。悲しいという感情はもちろんありました。彼との記憶が駆け巡りました。でもそれ以上に整理がまだついていなかったのだと思います。本当にいなくなってしまったのだと。

正直今でも彼の死の整理は自分の中で整理がついていません。高2から彼の家に線香をあげに行けていません。こんな感じでは将来自分の親族が亡くなったときの自分が不安です。

僕はこの文章で「人はいついなくなるかわかんねえから普段から周りの人を大切にしよう」みたいな啓発をするつもりはありません。もちろんそれは大切なことです。しかしこの体験で僕の薄っぺらい人生観のようなものは大きく変わりました。彼のことは一生忘れないと思います。

ロールプレイング

つい最近のことですが僕のバイト先の同僚がひとりバイトを辞めました。

地元から大学生活のために一人暮らしを始めた僕にとってその同僚は今住んでいるこの土地での唯一に近い友人です。バイトを辞めた今でもよく飲んでます。その友人がバイトをやめた理由はざっくりいうと人間関係です。

彼がバイト先で担っていた「役割」は「誰がどういう風に接していても大丈夫なお調子者」です。ちょっと頼みにくい仕事でも彼になら大丈夫、あいつはそういうキャラだしちょっとくらいぞんざいに扱ったり強く当たったりしてもいい、いつもへらへらしてる。実際ぼくも最初のころはそんな印象でした。しかしそんな「お調子者キャラ」と彼の実際の気質には乖離がありました。

彼は実は誰よりも内気で物事を考えすぎてしまうような性格でした。彼はそんな自分に押し付けられた役割と本当の自分とのギャップ、その役割のまわりからの押し付けに違和感を感じ、辞めました。もちろん僕は完全に彼のことをを理解しているわけではないからもっと他に根源的な理由があったのかもしれません。大袈裟かもしれませんがでもこれまで何度も何度も彼と話していて僕が出した一つの結論です。

彼は別に大きな実害を受けたわけではありません。彼を職場の人間が堂々といじめていたりしていたわけではありません。むしろ人間関係は第三者の僕から見て良好にも見えました。しかし彼は「違和感」を感じて辞めました。

僕は彼から辞めようかと思っているという話を聞いたとき、「なぜ?」と思いました。「違和感がある、雰囲気が嫌だという理由で辞めるのか?」と思いました。その話を聞いてから彼と職場の人間との関わりをよく観察するようになりました。すると昨日までとは違った見え方がしてきたのです。

僕にも「違和感」が肌で感じられるようになりました。みな表面上の取り繕ったような関係で接していたのです。バイトの職種によるものもあるのですが「みんな文句言わず波風立てずにいこうね」「みんな割り当てられたキャラ、立ち位置で振る舞おうね」といった雰囲気があることに気づきました。もちろんそれは平和でアットホームな職場なんだと思います。所詮バイトともいえますし。でも僕はそこではじめてある種の「気持ち悪さ」を感じてしまいました。

そして同時に気づきました。僕も彼に「役割」を知らず知らずのうちに押し付けていたひとりであったと。だから彼の景色が見えていなかったのだと。

人間は見た目などの第一印象によってキャラを勝手に周りに確定されることが往々にしてあります。そしてそのキャラが実際の自分とかけ離れたものであることも珍しくはないでしょう。あいつはチャラそう、あいつは真面目そうそういった判定を日々僕もしています。そしてそのキャラを受け入れ、本当の自分を奥に押し込めて生きている。世の中そんな人が過半数だと思います。でもそれを受け入れられる人とそうでない人がいる。彼は後者だった。

僕はそんな環境や社会は間違っている!とか論評したいわけではありません。ただ、次にまた彼みたいな人に出会ったとき自分はどうするべきなのだろうかといつもいつも考えています。「もっと本当の自分出して行けよ」と言うべきなのか、それとも傍観を決め込むべきなのか。

彼の話を聞いていると、彼はこれまでの人生のあらゆる段階でそのキャラは不変だったようです。「たぶん一生おれこのままだな!」と彼は笑いながら言っていました。

環境を変えるときに自分のキャラも変更することのできる人もいます。いわゆる「高校デビュー」とか「大学デビュー」とか言われるのもその類でしょう。でもどこへ行っても変わらない、もしくは変われない人もいます。そういう人はいつか救われるのでしょうか、そもそも救われたいと思っているのでしょうか。

なんか深いことを書きたかったんですが、ただもやもやしていることを書いただけでした。人間関係ってめんどくさいですね。

達観すること

突然ですが僕はアニメがそこそこ好きです。その中でも「やはり俺の青春ラブコメは間違っている。」はけっこう好きです。先日三期の放送始まりましたね。

この作品はタイトルこそラノベでありがちな学園ラブコメっぽいですが中身はそうでもありません。登場人物たちがめんどくさいです。詳しいことは調べていただくとわかりますが、特に主人公の比企谷八幡がいわゆる「高2病」です。斜に構えひねくれていて、すべてを達観したような主人公です。その八幡の心理が巧みに描写されています。この作品かなり人気で、原作ラノベの発行部数は1000万部を超えているらしいです。世の中には八幡に親近感を覚える人間が割といるんですね。この作品が好きな人は深夜ラジオとかも割と好きな人でしょう。

この作品はもちろん素晴らしいんですが、厄介なのはこの作品をみるとなんだか「すべてが分かった」ような気持ちになることです。「八幡その気持ちマジでわかる~。やっぱ世の中バカなやつばっかだよなあ」みたいな気持ちになります。別に賢いわけでもないのに。「自分は俯瞰ができていて、そこから見えた正しい普遍的な答えを持っている」と思っている人間の完成です。ぼくもそんな気質があります。それももしかしたら正しいのかもしれないけど、それでもやっぱり僕は物事をまっすぐに見たいです。これまで僕はまっすぐな人を冷笑してきました。人の発言の裏を深読みしたり、人とは違う意見を逆張りしたりしてきました。

この前テレビをつけるとお笑いコンビのオードリーが特集されていました。その番組の中で若林さんが「自分はこれまで常に物事を斜めに見てきた。でも父の死をきっかけにまっすぐな目で見てみると素敵な世界が広がっていた」とおっしゃっていました。ぼくもいつかそんな世界が見てみたいです。

「服好き」について

僕は趣味レベルですが服が大好きです。どんなジャンルにも言えることですが「好き」にはレベルがあります。なので「服好き」にも様々いて、僕は大きく三段階に分かれると思っています。

① 大学に入りプチプラブランドを買い始め綺麗めな服装を好むようになった者(口癖は「この服かわいい」「よきよき」など)。ベージュの服を好み、インスタにコーディネートと服をたたんで並べた写真を載せ始め、フォロワーが増えて人気が出始めるとオリジナルブランドを作ります。いわゆる「量産型」

② ①の段階を過ぎ、高価なデザイナーズブランドやインポートブランドに手を出し始めた者(口癖は「今季の~」「SS」「FW」。とにかくまわりと違うことが大切なので奇抜あることが多い。)

③ 自分の信念、哲学を持った服好き。服装はシンプルなことが多く髪はすごく短いかすごく長い。まわりの目を気にしていない。

僕は別に批判したくて上記の特徴を書いたわけではありません。服なんてなにを着ようがかまわないし結局窪塚洋介か海外ラッパーは何着てもかっこいいです。しかし服好きというのはマウントをとりがちです。僕にもその傾向はあるように感じます。特に上で書いた②が①に対してとりがちです。何事も文句を言うのは中間層なわけです。そういう人間には確立された自己哲学が存在しません。だから不安で他者を批判するのです。

世界的に有名な「アントワープ6」のひとりであるラフシモンズは「私にとってファッションとは姿勢である」といった趣旨の発言をしています。ファッションで本当に高みにいる人間にとって服は自己の表現方法のひとつに過ぎないわけですね。これはファッションに限った話ではないでしょう。どんな分野でも高みにいる人間は確固たる哲学をもっているのでしょう。変わったデザインの服を着るのも好きですが、白T一枚で様になるような人間になりたいですね。

 

中二病

中二病という言葉は批判的、自虐的な意味が込められた言葉です。

思春期特有の思想が過剰に発現した状態を指します。僕も中学生のころはなんだかんだ世界は自分中心に回っていると思っていました。そして高校生頃になると高2病なるものも存在するらしく、これは逆に物事を斜に構え、達観する状態を指すようです。どちらかというと僕は高2病ですね。

「病」とついているのですからこれらの病は社会的には受け入れられない、早く卒業すべきこととみられているようです。もちろん大人になってもフリーメイソンだとかいってるのはどうしようもないというのは理解できます。まっすぐでいるべきですもんね人って。

僕は社会が中二病を冷笑する空気になにか違和感を感じていました。もちろん中二病と言われる人間の思考は現実との乖離があります。一方でそれはその人間の理想のようでもあると思います。それを冷笑する人間には一種の「諦め」のようなものが感じ取れます。「そんな夢見事言ってないで現実見ようよ」「早く大人になりなよ」という冷笑の裏には大人になることを強制された人間の諦めの感情があるように思えてならないのです。

別に中二病の話に限ったことではありません。日本人は正規ルートから外れた状態をけなすでもなく、怒るのでもなく「冷笑」します。そしてそれは自分自身の「諦め」と「羨望」からくるものなのだと思います。この文章自体も達観した「高2病」の文章だと言われそうですね。僕は普段様々な違和感を感じながら生きています。今日はその1つを書きました。